薩摩藩主・島津斉彬は兵を出して朝廷に詔を出すよう請願し、幕府に改革を迫ろうとしていました
しかし、安政5年(1858)7月、斉彬はこの世を去ってしまうのです
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第16回 2018年4月29日放送
ネタバレを含みます
まだ詳細を知りたくない方は読まない方がよいでしょう
一橋派の敗北
吉之助は突如やってきた月照に、斉彬の死を知らされた
死因は、連日、炎天下で兵たちの指揮を執っていたことで無理がたたらしいということだった
しかし、毒殺を疑いも否めなかった
吉之助は悲しみを押し殺しながらも斉彬の命を無駄にしてはいけないと考えた
そこで、五摂家筆頭の近衛を通じて朝廷に詔を出してもらうよう願いでた
それは、水戸藩の徳川斉昭に挙兵を促す戊午の密勅(ぼごのみっちょく)だった
安政5年(1858)、孝明天皇が内密に水戸藩へ下賜(かし)した勅諚(ちょくじょう)のこと。戊午とはこの年の干支。勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した幕府の責任追及や、幕政改革の推進、この勅諚の諸藩への回達が命じてあった。朝廷から水戸藩へ直接勅書が渡されたという事態は、幕府の威信失墜につながるため、幕府は水戸藩に勅諚の内容の秘匿(ひとく)を厳命した。この勅綻は、回達の可否をめぐって水戸藩の藩論を二分させたほか、大老・井伊直弼が安政の大獄を起こす引き金ともなった。
江戸では、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の締結をめぐり、斉昭や一橋慶喜、福井藩主の松平慶永らが江戸城に無断で登城し、大老の井伊直弼を詰問していた
しかし、この不時登城を逆手に取られて、斉昭は蟄居、慶永も隠居・謹慎を命じられてしまう
慶喜もいったんは品川宿の飯盛女・ふきとの逃亡をを考えるものの、思い直して謹慎を受け入れ、3 年半ものあいだ邸内の一室に蟄居することになった
最後の望みも絶たれた吉之助は、薩摩へ帰って殉死しようと考えた
しかし、それを察した月照は吉之助を止めた
吉之助には、斉彬の考えが詰まっているはずなのだから、ここで死んでしまったらその遺志も消えてしまうのだと
吉之助に斉彬となって生きるよう説得したのだ
一方、井伊は幕府への挙兵を促す戊午の密勅の写しが、水戸藩をはじめとする諸藩に出回っていることを知り、帝をたぶらかした者たちに対する弾圧を決断する
幕府に歯向かおうとした者たちへの厳しい取り締まり、世にいう安政の大獄がはじまった
吉之助と月照と逃亡へ
やがて京都の月照のもとにも、京都所司代などによる幕府の追及の手が伸びてきた
江戸幕府の職名。京都に駐在し、洛中の警備のほか、朝廷や公家の監察、京都・伏見・奈良の町奉行の管理、近畿全域の訴訟の裁決、西国大名の監視などにあたった。定員は1名で、譜代大名から任命された
月照は、帝や公家衆を扇動した罪に問われたのだ。そんな月照を助けるため、吉之助は薩摩に一緒に逃げようと提案した
薩摩なら幕府も簡単には手が出せないし、また薩摩が再度兵を起こすようなことがあれば、そのときは再び月照の力を借りなければならないはずなのだ
こうして吉之助は、月照と護衛の有村俊斎とともに薩摩をめざすこととなった
吉之助たちがなんとか京都を抜け出したが、橋本左内は月照と吉之助を逃がした罪で、井伊の腹心・長野主膳に囚われてしまった
幕府の目は、月照だけでなく、いつしか吉之助にも向けられていた
吉之助と月照の人相書が宿場に出回っていたため、吉之助たちは表通りを行くことが出来なかった
一行が道なき道を進み、川の水を飲みながら必死に薩摩をめざしていたある晩、吉之助は休息をとっていた山中の廃寺で斉彬の幻を見た
吉之助「お殿様……おいはまだ腹は切れもはん……お殿様の願いは、おいが果たしもす。そいまで、待っちょってたもんせ。そんときは……もう、叱らんでたもんせ。お殿様、こんとおりでございもす」
吉之助は見えない斉彬に向かって平伏する姿を、離れたところから月照は見ていた
しのぶの一言
今回も大変苦しい回でした。吉之助は斉彬の死の悲しみを堪えて、水戸に兵を出してもらうように働きかけるものの、失敗。
死を決意しますが、月照に「あんたさんが薩摩守になりなされ」と諭され、思いとどまります
今までは斉彬を尊敬し、殿の役に立てるように頑張ってきたのに、その殿を失い、しかも幕府から追われる立場になり、窮地に陥ります
そして、月照さまをつれて薩摩へ逃げ帰ることに
おそらく月照を守るということが、この時の吉之助が生きていくための小さな力になっているような気がします
こんな辛い回だけど、月照が逃げるときに山伏のコスプレを披露し、お虎(春菜)が演技指導するというお笑いが盛り込まれていて、ほっこりしました(笑)
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