薩長同盟の「5か条」につけ加えられた1条!「西郷どん(せごどん)」

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犬猿の仲と言われた薩摩と長州が、手を結ぶことは誰も思いもしませんでした

ところが、奇跡が起きます!

1866年1月、薩摩と長州は同盟を結びこととなったのです

まあ、そこまでいくには揉めに揉めて大変だったのですが…

最初、桂小五郎の出してきた5か条の案は薩摩にとっては受け入れがいもので、決裂しそうになります

最終的には、薩摩が譲歩する形でそれを受け入れ、最後に一文を追加します

具体的にはどういう内容だったのでしょうか?

締結されたという6か条を見てみましょう



薩長同盟6か条とは?

薩長同盟6か条

一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事

ウィキペディアより

むずかしいですね〜

最後の一文がつけ加えられたものです

では、現代語訳を見てみましょう

6カ条現代語訳

・幕府と長州が戦争になったら、薩摩は直ちに2000人の兵を上京させて在京の兵に合流させる。大坂にも1000名の兵を配し、京都と大坂の実権を握ること

・長州が戦局優勢になったら、薩摩は朝廷に対して、長州への朝敵の指定撤回のために尽力する

・万が一、長州が戦争で負けても1年や半年で藩は壊滅しないので、薩摩は復興に尽力して欲しい

・幕府と長州の戦争で、幕府軍が勝負なく江戸に戻っても、朝敵指定という冤罪(えんざい)を晴らすために尽力して欲しい

・幕府が兵力を増強し、会津・桑名蓬なども強硬な姿勢をとり続ける時は、薩長2藩で幕府と戦う

長州の冤罪が晴れれば、薩長双方とも、誠心をもって一体化し、皇国の権威回復のために尽力する

ちなみに、この6カ条は薩長同盟が結ばれた席で書かれたものではありません

そもそも会談の内容は記録されておらず、盟約書も作成されませんでした

桂小五郎が会談の内容をまとめ、確認のために坂本龍馬に送った手紙に書いてあったものです

薩長同盟のまとめ

薩長同盟とは、幕府による第2次長州征伐に対抗するための軍事同盟でした

薩摩は幕府が率いる長州征伐にはは参加しない

薩摩は、表だって長州を助けないけど、京都と大阪に兵を送るなど、圧力はかける

場合によってはは長州を助ける

また、長州が京都での復権に向けて薩摩が後押しする

というような内容になっています

最後に、薩長がお互いに協力して朝廷を支えていくということがつけ加えられているのです

しのぶの一言

一見すると、長州を助けるための条約のようにみえます

しかし、長州が潰されれば、次に矛先が向けられるのは薩摩ということも考えられていたのです

禁門の変から第一次長州征伐まで、薩摩と長州は敵として戦っていたわけですから、仲間を殺されたなどという恨みもあり、感情的には受け入れたくないという者たちもいたわけです

他藩の浪人である坂本龍馬が仲介に入り、なんとか締結までこぎつけることができました

まさにこの時歴史が動いた!という瞬間でした

そして、このことが倒幕への下地となっていくのです!

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