幕末期、日本近海に外国船がやってくるようになり、欧米列強に対する危機感が高まりました
当時の技術では対応できないと感じた幕府や一部の藩は、西洋式の溶解炉、反射炉を導入するようになります
外国船に対抗するには、精度が高く飛距離の長い洋式砲が必要でした
しかし、従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、外国式の融解炉が求められるようになったのです
反射炉とは
銑鉄(せんてつ・砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です
銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となります
反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する構造となっています
このように反射させる仕組みから反射炉と呼ばれました
当時は、鉄製大砲を建造するには、溶解することによって衝撃に脆弱な「硬い鉄」の炭素の量を減らして粘り気のある軟らかい鉄に変える必要があり、その装置として反射炉が用いられました
反射炉はどこで、だれが、どうのようにして
最初に操業に成功したのは佐賀藩です
嘉永3年(1850年)に佐賀藩の鍋島直正(閑叟)が肥前国佐賀築地に築地反射炉、
ついで嘉永4年、薩摩藩の島津斉彬が鹿児島の現仙巌園内に反射炉をきずいて製鉄をおこない、大砲の鋳造をはじめました
嘉永6年(1853年)には江戸幕府韮山代官の江川太郎左衛門(英龍)(えどたろうざえもん ひでたつ)も韮山反射炉を築造
ほかには、萩藩、伊豆国、薩摩藩、水戸藩、鳥取藩などでも作られました
当時は日本は鎖国しているために外国の技術者を呼ぶことはできず、オランダの技術書などを参考にして独自に作りました
現在は、静岡県の伊豆の国市韮山と萩市の2基のみ、遺構が残っています
反射炉で製鉄できるようになって変わったことは?
かつての鋳造技術では砲身を鉄で製造する場合は材質を均一にできず、砲身が破裂する事故が多発していました。その後、大砲は鉄製から青銅製へと変わりました。
しかしその後の技術発達において、鉄製であっても材質を均一に砲身を鋳造する事が可能になり、再び鉄製の大砲が登場しました
しかし、日本は鎖国していたため青銅砲の段階で技術が止まったままでした
開国をキッカケにして反射炉が作られ、鉄製の大砲の製造が可能になりました
つまり、列強の脅威に対抗することができるようになったのです!
そして日本の技術力の高さも示すことができたと言えます
しのぶの一言
斉彬(渡辺謙)の薩摩の磯の御殿や江戸の藩邸でもよく設計図をにらめっこしたり、実験したり、部下に指示したりしてますよね
幕末の本を読んでいると、反射炉という言葉がよく見ますし、西郷どんにも出てくるので調べてみました
幕末に反射炉が作られたときは、外国の技術者に教えを受けたわけでなく、外国の言葉で書かれた技術書をもとに独自に製造したというのがスゴいと思いませんか!
反射炉の製造は日本の近代化はここから始まったのだと思われる象徴的な事例なのです
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