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1862年、薩摩藩の国父・島津久光は、悲願であった上洛を果たしました
久光は朝廷の信頼も得ることができ、幕政改革にも言及し、それなりの成果に得て薩摩へ帰途に着きました
しかし、そこで事件が起きました
帰りの道中で薩摩兵が殺傷事件を起こしてしまうのです!
しかも相手が異人だったのが問題でした!
つまり、斬り捨て御免などは通用しないということです
斬り捨て御免とは、
江戸時代、武士に非礼な働きをした下士・庶民を切り捨てても咎(とが)められなかったこと
この事件は、大きな波紋を呼び、ついには戦争にまで発展してしまいます
生麦事件とは?
文久2年(1862)に起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件のことです
8月21日に江戸を出発した島津久光の率いた400人あまりの行列が生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)に差しかかりました
そこで、馬に乗ったリチャードソンらイギリス商人たち4名に遭遇しました
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明します
しかし、イギリス人たちは「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだのです
行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進みました
鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにまずいと気づいたようです
しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いてしまいました
そこで、薩摩藩士数人が斬りかかったのです
4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い落馬、そして瀕死のところをトドメをさされました
ほかの3人は負傷しながらも何とか逃げのびていきました
怒ったイギリス側は、幕府と薩摩藩に対し犯人の引き渡しと賠償金を要求し、幕府は賠償金を支払ったのですが、薩摩藩は拒否したため薩英戦争に発展してしまいました
薩英戦争(さつえいせんそう)
文久3年(1863)に起こったイギリスと薩摩藩との戦争のこと
生麦事件に関する犯人の処罰や賠償金の支払いなどを拒否した薩摩藩に対し、イギリス艦隊7隻が薩摩の錦江湾(きんこうわん)にやって来てして報復砲撃を開始しました
応戦した薩摩藩も砲撃で旗艦ユーリアラス号を砲撃し、艦長を戦死させるなど奮戦します
対するイギリス側は、射程距離の長いアームストロング砲を駆使し、集成館(しゅうせいかん)をはじめ鹿児島城下の約1割を焼失させるなど、圧倒的な軍事力を見せたのです
開戦から2日後、食料や弾薬が欠乏してきたイギリス艦隊が船体の修理も兼ねて横浜に帰り、まもなく横浜のイギリス公使館で和議が成立しました
わずか3日でこの戦いは終結しました
薩英戦争がもたらしたもの
当時は尊王攘夷の声が高まっていたので、久光の武勇伝として薩摩を賞賛する声もありました
しかし薩摩藩は、薩英戦争を通して圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、攘夷論には無理があることを体感したのです
また、当時アジア進出の主導権を握っていたフランスは幕府を支持していましたが、それに対抗したいイギリスは、薩摩藩と近づくようになります
薩摩藩の軍艦の購入の斡旋や薩摩藩士のイギリス留学生を受け入れなどの便宜を図るなど薩摩藩の近代化に力を貸してくれました
イギリスは薩摩藩の強力な援軍となっていったのです
◎薩摩とイギリスでは以前にこんな戦もありました
しのぶの一言
日本一強いと言われていた薩摩兵が本領を発揮したら、異国との戦争に発展!
このときイギリスが本気で攻め込んできたら、薩摩藩などひとたまりもなかったに違いありません
災い転じて、薩摩とイギリスは手を結ぶようになりますが、それは維新を成し遂げるのには原動力になったと言えるでしょう
もし、このとき行列を率いていたのが久光でなく斉彬だったらまた違った結果になっていたのかもしれません
たぶん、イギリス人を殺傷するようなことはなかったのかも
そうすると、薩摩とイギリスが友好的な関係になっていたかどうか?
そう考えると、生麦事件も何か見えない力が働いていたのかもと思ったり(妄想です)