井伊直弼に天誅が下るのは「西郷どん」第20回の終盤(40分過ぎ)です
非常に短いシーンですが、とても印象的でした
1860年3月3日、江戸では季節はずれの雪が降る朝のこと
井伊直弼を載せた籠の周りには、護衛と襲いかかる浪士が激しい斬りあいとなっています
籠のなかには井伊直弼が表情1つ変えずにじっと座っています
そこに籠に向けて短銃から弾が打ち込まれ、「天誅ーーー!」という声とともに、籠から引きずり出される井伊直弼
襲いかかってくる浪士を見つめる井伊直弼の切ない表情
そして「チェストー!」という叫び声とともに剣が振り下ろされて
次の瞬間、横たわる井伊直弼の横には血の池が…
合掌
桜田門外の変とは?
安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老 井伊直弼を暗殺した事件です
登城途中の井伊直弼には井伊の護衛は50名いましたが、雪が降っていたために刀に防水用の革袋がかけられていて、急襲に対応できなかったのだといいます
井伊直弼にとどめを刺したのは、唯一の薩摩藩士で有村俊斎の弟、次左衛門(じざえもん)でした
なぜ桜田門外の変が起きたのか?
日米修好通商条約や将軍継承問題で幕政が割れてしまい、一橋派と南紀派の政争に発展
政争に勝ち、権力を持った井伊直弼は一橋派を次々と粛清(安政の大獄)するという暴挙にでたのです
しかし、そのことは多くの人の恨みを買い、井伊直弼自身の首をしめることにつながったのです
安政の大獄では特に水戸藩への弾圧が強ったことから、桜田門外の変で襲撃を企てたのもほとんどが水戸藩を脱藩した浪人からなっています
桜田門外の変のあと
桜田門外の変が起きたことは、公にしばらくは伏せられたそうです
幕府の大老が暗殺されたということで、幕府の権威は失墜します
幕府はこの危機を打開するために、朝廷との融和索を図ります
孝明天皇の妹である和宮親子内親王を将軍・家茂の正妻として迎える計画を推し進めました
また井伊直弼により政治から遠ざけられていた者たちの謹慎などを解き、罪を着せられていた人々に恩赦を与えました
しかし、幕府の弱体化は止めるとこはできず、反対に攘夷運動はますます過激になっていきました
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