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藩主・島津斉興(なりおき)は、斉彬(なりあきら)に面会すると、いつも怒ってばかりいます。2人の間にはいつも険悪空気が流れています
斉彬は、斉興と正妻・弥姫(周子)の嫡男なので薩摩藩の世継ぎは斉彬と決まっていました
けれども第2回で、斉興は藩主名代は次男の久光にすると言い放ち、斉彬は部屋を出て行ってしまいます
この親子の確執は薩摩藩を二分する抗争の火種となり、お由羅騒動が勃発します
しかし、実の親子である2人はなぜそんな風になってしまったのでしょうか?
調べてみると、それには色々と深い事情があったのです…
斉彬は江戸育ち
江戸時代、大名は妻子を江戸に証人として居住することになっていました
斉興の長男である斉彬は江戸薩摩藩邸で生まれ、江戸で育ちました。
一方、斉興の側にはいつも寵愛を受けた側室・由羅がいました。斉興と由羅の間には、二男の久光がいます
由羅は久光に薩摩藩を継がせたいと思っていたのです。事あるごとに斉興に久光をプッシュしていました
斉彬はお爺ちゃんっ子
幼少の頃から聡明であった斉彬は、斉興の先代の藩主・重豪(しげひで)に可愛がられ、青年期までその影響を受けて育ちました
重豪は将軍・家斉に娘を嫁がせていたことから、政界にも大きな影響力を持ってたのです
また、重豪は当時の大名には珍しく蘭学を好み、蘭癖とまでいわれていました。
江戸からの帰途長崎に立ち寄って蘭館を訪問、蘭船に乗り込み、自らもオランダ語や中国語を習得し、歴代商館長とも親しく交際し、晩年は、シーボルトと会見して直接教えを受けたりもしていましていました
また重豪は薩摩藩に、造士館・演武館・医学院・明時館(天文館)・薬園など文武諸般にわたる文化施設の充実に努め、学術を振興しました
一方で、これらの政策による莫大な出費は藩の財政を崩壊寸前にまで追い込んでいたのです
このことから、斉彬が藩主に就任となれば、重豪のように公金を湯水のごとく費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと心配をする声がありました
日本の未来 VS 薩摩藩の未来
斉彬は江戸では幕府の上層部にも頼りにされるような存在になっていました。当時の幕府は外国から開国を迫られ、前代未聞の難題に頭を悩ませている状態でした
そんな渦中にいた斉彬の頭の中にあったのは日本の未来だったのでしょう
一方、薩摩にいた斉興は薩摩藩のことの方が大事なのは当然のことでしょう。なにしろ重豪の残した膨大な借金を返さなくてはならないのですから…
斉興と斉彬とでは見ている風景も目指している未来も違っていたようです
しのぶの一言
普通の親子なら、喧嘩しても別の所帯で暮らしていればそれでいいのかもしれません
でも大名となるとそういう訳にはいきません。家族でありながら、国のトップ機構でもあるわけで…
斉彬も江戸では認められていたとしても、薩摩藩の力も大名という肩書きもどうしても手に入れる必要がありました
このファミリーの闘争は、やがて周りを巻き込んで大惨事になってしまいます。そして、そのことは後々まで尾を引くことになるのです
それでも薩摩藩は最後までお取り潰しになることもなかったのは、不幸中の幸いといえるのでしょう
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