2005年放送に放送された「NHKスペシャル 明治 」は、全5回のシリーズです。
- プロローグ 今、明治に何を学ぶか
- 第一集 ゆとりか、学力か
- 第二集 模倣と独創~外国人が見た日本~
- 第三集 税制改革、官と民の攻防
- 第四集 国のありかたをどう決めるか
「プロローグ 今、明治から何を学ぶか」と題されたは最初の回では、ドラッカー氏と加藤周一氏による見解を通して明治の変革について分析するというものです。
日本の近代のことを知りたくて、偶然みつけた番組ですが、とにかく面白くて感銘を受けました。
明治時代って、今まであまりスポットライトが当たらなかったけれど、めちゃめちゃ熱い時代だったんですよね。
開国して、新しいシステムを作り、はじめての外交を行うものの、下からは突き上げら、外圧は強く、大変な逆風の中、すごいスピードで近代化していっていたのは、本当はすごいことだったんです。
この回に登場し、ドラッカーさんも絶賛している渋沢栄一(しぶさわえいいち)さんはその一旦を担っていた一人です。
明治時代を引っ張ってい人がなぜそんなパワーをもっていたのかというと、その志の高さがとてつもなく高かったからとしか言いようがありません。
明治の人々が日本の基盤を気づき、その上に今の自分たちがいるのだなぁと思うと、頭が下がる思いです。
もし渋沢栄一さんのことをご存知ないのでしたら、この番組をみれば、どんな人物だったのか、なぜお札の顔に選ばれたのかがきっと理解できるはずです。
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NHKスペシャル明治 プロローグ「今、明治から何を学ぶか」
今から100年以上前の明治38年前(1905年)日本はロシアとの戦争に勝利をおさめ、世界中に衝撃を与えました。
わずかな期間で西洋列強にならった近代的な国へ変身したことを証明したのです。
それから1世紀。
現代の日本は、少子高齢化、財政破綻、学力低下などさまざまな問題に揺れています。
時代に合わなくなった古い考え方や社会の仕組みを変える必要があるとみられています。
明治時代、日本がなしとげた変革とはどのようなものであったのか?
残された写真と図面を手がかりに、コンピューターグラフィックスを使って再現した銀座の町並みです。(番組内で見れます)
4丁目の交差点には、時計塔がそびえています。日本人が太陽暦を採用し、1日を24時間に区切って生活を営むようになったのは明治になってからのことです。
時計店の隣にあるのは人力車の店。明治の人びとは、この人力車のように、日本独特の工夫を加えた物を活用しました。
また、大通りを行き交う路面電車は、20世紀初頭における機械技術の粋を集めた乗り物です。
変化を遂げたのは街並みだけではありません。江戸時代の寺子屋に代わって教育制度がしかれました。
明治の末には、教育の普及を度合いを示す就学率は98%に達します。
鉄道などの近代的な技術の導入もいち早く進められ、巨大な工場の建設が進められ、社会を劇的に変化させました。
近代的な税制や土地制度が定められ、やがて憲法や議会の制定も整えられます。
NHKスペシャル明治 放送の内容
明治の日本はなぜ素早い変革をとげることができたのか?
現代にまで積み残された課題とはなにか?
NHKスペシャルでは今日から5回に渡って明治時代の変革の過程を追い、現代へのヒントを探って行きます。
プロローグ編
プロローグ編では、渋沢栄一はじめ、多くの群像をもとに明治の変革の秘密を探ります。
アメリカの経営学者、ピーター・ドラッカーさんや日本の評論家加藤周一さんの話しを交え、今明治から学ぶことは何かを考えます。
今から110年前、
混迷の中、日本は国づくりに乗り出した。
明治 日本。
生まれたばかりの若いこの国には、
さまざまな可能性があった
人々は何を思い、
どのようにしてこの国を創ったのか
今 曲がり角に立つ現代の日本に
新たな国造りの示唆を得るため
明治の人びとの声に耳を傾ける
(プロローグ)
今、明治に何を学ぶか…
ピーター・ドラッカーさんから見た明治という時代
経営学者 1909年生まれ、ナチスを逃れてアメリカに移住
日本は今こそ明治の変革に目を向けるべきたと説く。昭和日本の高度経済成長に早くから注目した経営学者です。
ドラッカー「あなたがた日本人は必要なものを取り入れて、日本に合わせて作り変えるという目覚ましい才能を発揮しました。
私にとって明治は、あらゆる歴史の中で、最も興味深くユニークな時代です。」
加藤周一さんからみた明治という時代
1919年(大正8)生まれ
日本と西洋の文化それぞれに造形の深い、評論家の加藤周一さんもまた明治時代から学ぶことが多いと考えています。
加藤「日露戦争前の明治は、侵略的(しんりゃくてき)でもなく、膨張(ぼうちょう)主義的でもなくて、しかし一種の独立を目指したのです。
そこにまた誇りもあったし、日本の文化を引き継いで独立を目指したという点が明治の背骨(せぼね)にあったと思うのです。」
明治の成功の秘訣
明治の成功の秘訣は、「古いものと新しいものを組み合わせる」という方法と考えられています。
この変革について次の3つの観点から分析します。
- 教育の重視
- 文化の独立
- 人材の活用
教育の重視
明治の初め、日本は独立が危ぶまれる事態に陥っていました。
江戸時代の末に来航したペリーが軍事力を背景に開国を迫り、日本はアメリカやイギリスなどと不平等条約を結んだのです。
そのころ、イギリスなどの西洋諸国はアジアの各地に植民地を獲得していました。
中国大陸ではアヘン戦争が起こってイギリスが勝利してさらに勢力を強めていました。
このままでは植民地になるかもしれないという危機感のもと日本が採った道は、西洋諸国の優れた点を見抜き、技術を取り入れることでした。
こうした姿勢には、植民地化にさらされた他の国とは大きな違いがあったと加藤さんは分析します。
西洋技術の取り入れ方
加藤「中国はアヘン戦争で負けたので、軍艦を買ったが、日本は造船技術を買おうとした。」
日本の近代化の核「教育」
日本の近代化の核となったのは教育です。
実を言えば、明治の変革は江戸時代の末期に教育熱が起きたときから始まったとも言えます。
京都を先駆けとして、一部の地域では早くから西洋の知識が教え始められていました。
明治期の偉人たちのほとんど全ては各地の藩校や私塾で教育を受けた人々です。
文化の独立
明治の翻訳主義
翻訳によって西洋の制度と技術を消化した。
翻訳のおかげで文化の独立を保った。
加藤「今、改めて明治から、翻訳による外国文化の摂取の進め方と、その意味を学ぶべきだと思う。
明治の官僚たちがどうしてあんなに早く今まで聞いたことのないような西洋の国民国家の制度を消化することができたのか?
また技術を自分のものにすることができたかといと、翻訳があったことが非常に大きい。」
明治時代、西洋の知識を吸収するために、福沢諭吉(ふくざわゆきち)や西周(にしあまね)といった人々によって数多くの翻訳語が作られました。
philosophy 哲学
ideal 理想
instinct 本能
多くの言葉はこの頃に生まれました。
これに対し、欧米諸国の植民地となった国々では、近代文明を教える教育は英語やフランス語など西洋の言葉で行われました。
ドラッカー「明治のような変革は、他のアジアでは成し遂げることができませんでした。
インドでは近代化のために自国の言語を捨てざるを得ず、今日インドの多くの人々にとっては主要な言語は英語になってしまっています。」
加藤「ところが、日本では全然そういうことがない。
日本語に訳してしまえば、誰でも読めるわけだから。
すこし専門的な本でも翻訳書でも読むことができる。
これはつまり独立、文化の独立なんですね。
明治の日本には独立の精神があった。そして、そのことと日本文化を知ることと深く関係しているし、外国の文化を知るための条件です。
外国語を含めて。日本を知らなくて、外国を深く理解することはできないですよ。」
明治2年(1869)、京都で始まった近代教育の動きは、3年後の明治五年、政府が学制を公布することによって全国に広まります。
各地の寺子屋は次々に小学校に置き換わり、3年間で2万4千校もの学校が建設されました。
明治の人びとは国の将来をこどもたちの教育に託したのです。
しかし、こどもたちが育つまでの間は、どうするか?
そこで、明治の人びとがとったのは、すでにいる人材を活用するという道でした
人材の活用
人材の配置転換
ドラッカー「明治の日本にとって、最も難しい問題は新しい人材の配置をどう行うかということでした。
幕藩体制の安定的だが流動性の少ない社会にいた武士たちを、実業家や官僚、学者に転換しなければならなかったのです。
明治の人々はその問題をみごとに解決しまいした」
加藤「武士というのは元は軍人であるのだけど、実際の仕事は官僚ですよ。
ヨーロッパのモデルで近代化を進めようとしたのですが、西洋の国民国家のメカニズム、制度、ネットワークを理解するのにはかなりの程度まで武士層の官僚機構の活動、経験がやくだった。
だから見たらすぐに何をしてるかを理解できたわけ。」
江戸時代の人材が活用されたのは、政治や官僚の分野だけではない。
海運業を切り開いた三菱の始祖・岩崎弥太郎(いわさきやたろう)、金融業に進出した安田善次郎(やすだぜんじろう)、鉱山経営などさまざまな事業を起こした五代友厚(ごだいともあつ)。
こうした人びとも、時代の変化に応じて実業家に身を転じました。
ドラッカー「明治の日本の大きな強みは、教育を受けた人材を数多く抱えていたことです。
日本は技術は西洋から輸入したが、人材は江戸の遺産を活用しました。明治のユニークなところは江戸を廃棄せず再利用したことです。」
ドラッカーさんによれば、古いものを新しいものに生かした特質を象徴した人物が渋沢栄一(しぶさわえいいち)であると言います。
渋沢栄一(1840〜1931)
渋沢は日本の近代産業の基礎を築いた
ドラッカー「渋沢栄一は、新しい日本は古い日本を生かして、その上に築かねばならないと理解していたという点で、明治時代の最も重要な人物の一人です。
渋沢は近代的な銀行を作り、企業を作り、銀行を通じて融資をしました。
そしてそれらの企業を経営する人材を見出しました。
100年以上の前の人物が創設した組織が今なお機能しているというのは極めてまれなことですが、ある意味では渋沢こをが今日の日本のシステムを作り出したとさえ言えます。」
渋沢栄一とは、
江戸時代の末、渋沢栄一は関東の農家に生まれました。その後、能力を認められて、幕府の侍に取り立てられます。そして、使節団の一員としてフランスに渡りましたが、幕府が倒れたのを知って帰国します。
元号が明治となって間もなく、渋沢は政府の有力者、大隈重信に呼び出されました。
幕府の家臣として明治政府に反する立場にあった渋沢を役人として採用したいといのです。
渋沢は迷いましたが、日本全体のために才能を生かしてほしいというbの気持ちを知って政府に使えることを決意します。
明治2年、渋沢の提案によって、改革の中心となる新たな組織、改正掛(かいせいがかり)が作られました。
改正掛(かいせいがかり)
大隈重信(おおくましげのぶ)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、井上馨(いのうえかおる)など西洋文明の威力を知る人を後ろ盾とする改正掛には、能力を重んじて人材が集められました。
近代的な郵便制度を立案した前島密(まえじまひそか)はじめとして、かつての幕府の家臣たちも参加しました。
改正掛は明治の変革の特徴である、人材活用の典型だったのです。
この改正掛の長として、渋沢はさまざまな政策を立案しました。
鉄道、電信の敷設や暦の制定、尺度や秤(はかり)の統一、そして、税金や土地の制度の改革など、改正掛はさまざまな提案を行います。
渋沢栄一、実業界へ
明治6年(1873)、渋沢は役人を辞めて、実業の世界に転身しました。商工業を盛んにするには、民間にも人材を集めて事業を起こす必要がある。
そのために、自ら牽引役(けんいんやく)とになろうとしたのです。
第一国立銀行
東京日本橋兜町の一角にある銀行の壁面に、第一国立銀行の外観をかたどった記念碑があります。
その建物は、下層部は西洋式、上層部は日本の城の天守閣(てんしゅかく)を模して作られました。
それは、日本の人材と西洋の制度を組み合わせて活用する明治の精神を象徴するかのような存在でした。
銀行を拠点にして産業を育てようとする渋沢が直面したのは、日本の市場が外国製品に支配されようとする姿でした。
製造業へ
明治10年代のはじめ、圧倒的に安く質の良い外国製の繊維製品が国内になだれ込んでいたのです。
渋沢は大規模な繊維工場を模索し、資金を集めます。
ところが問題がありました。日本には近代的な工場の経営を任せられる人材がいなかったのです。
渋沢は外国の技術を取り入れる時には、日本の実情にあわせる必要があると考えていました。
「外国の工場の視察、書物の調在位で紡績の事がわかるものでない。
外国の方法が一通り分かったとしたところが、日本では日本に適応した物を作らなければならぬ。
外国の物をそのまま、当てはめようとしても、とてもうまく行くものでない。
糸の太さの差異もあり、価格の相違もあり、その折合いのつくはずがないのだ。」「百年史 東洋紡」より
渋沢は、工場を任せる日本人を探しました。工場運営の能力を身につける意欲をもつ人材がいるはずだと考えたのです。
やがて有力な情報がもたらされました。勉強熱心な男がいるというのです。
山辺丈夫(やまのべたけお)
津和野藩の出身で、森鴎外(もりおうがい)や西周(にしあまね)を排出した有名な藩校・養老館(ようろうかん)で学んだ人物です。
明治10年から山辺は、イギリスに留学していました。新しい時代に対応して西洋の知識を身につけようとしていたのです。
明治12年、ロンドンの山辺のもとへ渋沢からの手紙が届けられました。
日本の工場の経営者になってほしい、そのために工場運営の知識を習得してほしいという渋沢の願いに、山辺は即応じました。
かつて自らが政府に抜擢された渋沢が、今度は新たな人材を見込んで白羽の矢を立てるという形で人材が見出されていったのです。
山辺は一から工業を学ぼうと、工業都市マンチェスターに行き労働者として働こうとします。
ところが、思わぬ壁に突き当たりました。
どこの工場を山辺を受け入れようとしなかったのです。
つてを求めて山辺は連日、マンチェスターの町を歩き回りました。
そして、マンチェスター近郊のブラックバーンという町で受け入れてくれる工場が見つかります。
木綿糸を製造する工場で山辺は労働者として働きはじめます。
単に書物から知識を得たり、機械を購入するのではなく、技術を習得することはできないと考えたからです。
山辺は、英語の技術用語をひとつひとつ苦労して日本語に置き換えていきました。
西周たちが切り開いた、翻訳によって多くの日本人に西洋の知識を自分のものにするというやり方を、山辺も実践していたのです。
こうして生み出した技術用語をもとに、山辺は紡績技術の翻訳書を作りました。
それは、のちに日本人が紡績技術を習得するための手引きとして用いられることになります
一年近く工場で働いたのち、明治13 年(1880)に帰国した山辺丈夫は、渋沢栄一と密接に連携して、工場を建てるべき土地を探します。
そして、海に面した、原材料の輸入に便利な地を工場の建設地と定めました。
大阪紡績 操業開始
明治16年 大阪紡績は操業を開始した。山辺は最新式の紡績機械や蒸気機械など果敢に新しいものを取り入れます。
また西洋の技術を日本の実情にあわせるために、原料の特性にあった製品を開発し、豊富な労働力をいかすことのできる昼夜2交代制の生産体制を築きました。
夜の作業には照明が必要でした。明治19年、大阪紡績は民間用としては電灯を導入。
その明るさはたいへんな話題となり、5万人もの見学者が訪れる騒ぎになったといいます。
明治20年代には日本製の綿糸は外国製品をしのぐようになり、やがて日本の主要な輸出品となって世界市場に進出していきます。
渋沢と山辺の学ぶ意志と努力が実を結んだのです。
大阪紡績に続いて、渋沢は次々に事業を興しました。ガス・電力・紙・レンガなど関った会社は500を超えると言います。
そのやり方は、山辺のときと同じく意欲のある人材に運営を任せ、自分は後ろ盾になるというものでした。
明治20年頃には、日本でも紡績と鉄道を中心に産業革命が起こります。
また明治22年には、憲法を制定、23年には議会の設立も果たし、西洋的な近代国家の体裁を整えました。
古いものを生かしつつ、新しいものを積極的に導入し、日本の実情にあわせた成果でした。
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明治の人びとの行動が現代に与えてくれる最大の教訓として、ドラッカーさんと加藤さんが共に指摘することがあります。
ドラッカー「明治が現代に与えてくれる最も重要な教訓は、そのみごとな集中力です。明治の人びとは、さまざまなエネルギーをひとつの方向に束ね、目的意識をはっきりさせて新しいことに取り組みました。」
ドラッカーさんによれば、明治の人びとは、技術や製品は当面西洋から輸入して模倣することにとどめ、限られたエネルギーを社会の変革に集中したのだといます。
蒸気機関車のような製品は輸入品をそのまま使うことができるのに対し、会社や組織や社会的な制度のような近代国家の仕組みは、日本人自らが担えるようにする必要があったからです。
明治の外交
加藤「彼らに学ぶべきことというのは、彼らはかなり正確に国際情勢を把握していて、できることと、できないことの区別が明瞭で、それは、したいこととしたくないことの区別とは、別の問題ですよね。
両方がごちゃ混ぜにならない。つまり、希望的観測に基づいて、あるいは半分幻想的な解釈に基づいて、戦争をしたりとか平和条約を結んだりとかいうようなことをやらないで、たいへん正確に事態を理解していたと思うのです。」
日清戦争
明治27年(1894)、日本は、中国と対立。日清戦争が起こります。
翌年、戦争に勝利した日本は、賠償金と、台湾・遼東半島などの領土を得ました。
ところが、その直後、ロシア・ドイツ・フランスの3国が連合して、この条約に干渉し、日本に遼東半島の返還を要求したのです。三国は、軍事力を背景に要求を受け入れるように迫ります。
3国の連合に対抗する力がないと判断した日本政府の首脳は領土の返還を決断します。
明治の指導者たちの判断は現実的でした。
加藤「3国干渉というのはずいぶんべらぼうな話でね。
全然戦争に関係のない国が横から出てきて、それで終戦のあり方、賠償金から何から、そういう問題について介入して、しかも、強制的に軍事力で恫喝しながら通したわけです。
それを飲んだ。というのは、3国と日本、当時の日清戦争直後の日本との軍事力の格差があまりに大きくて、戦争しないうちからわかっていたわけですから、戦いは負けることは。
だから、いかにそれが不愉快でも、それをやらなかった。それは現実的な態度だと思うんです。
それはつまり、1930年代の初めから中国との15年戦争に乗り出した人たちは、何もわかっていなかったか。だから、大失敗をしたわけでしょう。
その失敗は繰り返され快り返され、ついに真珠湾まで行くわけ。
昔の明治の指導者だったら、真珠湾を攻撃しなかったろうと私は思います。
それは確かにアメリカから圧力は受けていたでしょう。
圧力を受けるのはきわめて不愉快だったかもしれない。
しかし、愉快、不愉快の問題ではなくて、戦争をすればどうなるかの見通しは甘いでしょう。
明治の人たちはそういう不可能なことをやろうとしなかった。だから持ったわけだ。」
明治37年(1905)、日本はロシアと戦争を始め、翌38年日本海海戦で大勝利をおさめます。3国干渉から10年のちのことでした。
東洋の小国、日本が大国ロシアを破ったことは世界に衝撃を与え日本は西洋諸国に対抗しうる国として認められました。
しかし、その後が問題だったとドラッカーさんは著書の中で指摘しています。
ドラッカー「日本は明治の成功に囚われてしまいました。
明治の人々は、優先順位をつけることを充分意識していて、その他の重要なことは後回しにしたことを意識していましたが、
その後継者たちは他に重要な目標を考えようとしなかったのです。
その結果、明治の人にとっては日本の独立を守るという目的を達成する手段にすぎなかった軍事力が目的そのものになってしまい、ついには日本に破局をもたらすに至るのです。」マネジメント (上)より
明治後半、華やかな消費生活が広がり始めていました。しかしその影で貧富の差が広がり、社会不安が高まりつつありました。
渋沢は晩年、次のような言葉を残しています。
渋沢「今日の企業家の多くは、国家よりも、社会よりも、まづ第一に自己の利益に着眼する様になつて居りはしまいか。明治初年の企業家に比して、その心事の相違はいかがであろう。
日本の文化は、維新以来50年の間に長足の進歩したとともに、弊害を生じ、事故さえよろしければ他人はどうなってもいう風に、西洋のよいことばかりでなく、悪い方を模様して、それが増長して来たのが我国今日の状態である。」
(渋沢栄一「青淵百話」より)
ドラッカー「私達は皆、変化し続けなくてはなりません。少子高齢化は先進国共通の問題ですが、日本は明治以来から築いてきた古い社会や経済のしくみから抜け出せないでいます。
私は日本がかつてと同様、社会の結合力という重要な手段においてふたたび成功を修めることを願っています」
日本の新たな変革のために、明治の教訓をどう生かすべきか?
NHKスペシャルでは明治の変革の過程を今後4回に渡ってさらに詳しくさぐって行きます。