こちらは、22話以降のネタバレを含みます
まだ詳細を知りたくない方は読まないでください!
誠忠組とは
幕末の薩摩藩で、尊王攘夷派の下級武士たちで結成された組織です
当初は「近思録」を輪読する会として結成されたものが時を経て、形を変えていきました
思想としては、前藩主・島津斉彬(なりあきら)の遺志をつぐもので、西郷吉之介や大久保正助がリーダーシップをとっていました
当時は精忠組という名前がつけられていたわけではなく、のちに精忠組(または誠忠組)と命名されたものです
桜田門外の変に誠忠組が登場する
薩摩藩でも、安政の大獄での尊王攘夷派に対して過酷な弾圧に対する反発は強く、井伊直弼を討つべし! という機運は高まっていました
特に若い精忠組の藩士たちの中には、過激な一派も生まれていて、今にも突出しかねない勢いだったのです
薩摩藩主や国父・久光、そして大久保利通は、精忠組の過激な一派たちにくれぐれも早まらないように忠告しましたが、藩の命に背く者が出てきていまいます
桜田門外の変では精忠組の1人、有村次左衛門が脱藩して参加し、井伊直弼を殺傷しました
有村次左衛門はその後、彦根藩士に斬り殺され、そのことを国元へ伝えた兄の有村雄助は薩摩藩内で切腹処分となりました
しかしその後島津久光は、精忠組を抑え込むことはせずに、誠忠組の大久保正助らを側近として抜擢するなどして、精忠組の力を取り込む方向に動きます
寺田屋騒動
文久2年(1862年)島津久光は藩兵1000名を率い上洛します
戦争を起こそうとしたわけではなく、幕政改革を迫るためものでした
しかし、精忠組の有馬新七ら過激な一派たちは先走り、薩摩の挙兵を機に事を起こそう画策します
そのころ京では、倒幕などを口にして暴れ回る不逞の浪人たちがいることが問題となっていました
朝廷は上洛した久光に対し、それらの浪士らを薩摩の兵を使って鎮めてもらいたいと求めてきました
朝廷の要望に応えることができれば、薩摩の立場はよくなることは明白です
久光は精忠組の過激一派を粛清することを決断します
薩摩藩士の過激な一派たちは伏見の旅籠、寺田屋に集結していました
差し向けられたのは、同じ忠誠組の大山格之助らです
大山は久光の命に従うように必死で説得しますが、交渉は決裂…
最終的には壮絶な斬り合いとなって死傷者を出し、藩に逆らった者たちは重い処分を受けました
薩摩藩の藩士同士、精忠組という組織の中での殺し合いに発展してしまったという寺田屋騒動は薩摩藩の黒歴史として悲しい影を残します
精忠組の結束はこれで崩壊することとなりました
一方、過激な藩士を抑え騒動を封じ込めたことで、朝廷からの久光への評価ははね上がりました
※ちなみに坂本龍馬が伏見奉行に襲撃をうけたのも同じ寺田屋で、薩摩藩の寺田屋騒動の4年後の慶応2年(1866年)のことです
他藩でも尊王攘夷派の組織
安政の大獄と桜田門外の変の影響で尊王攘夷の風潮は、全国に広がっていました
他藩でも下級武士が中心となった尊王攘夷派の組織されています
土佐藩では、土佐勤王党、長州藩では松下村塾などです
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