万千代は井伊直政(いいなおまさ)へ!その後はどうなる?「直虎」

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©NHK

直政は、この後も出世街道を駆け上がっていきます

家臣の中では新参者で年齢も若かったのですが、家康の信頼は非常に厚かったようです

武術だけでなく交渉術にも長けた直政は、徳川家を頂点とした世を築くことに大きく貢献したのです



旧武田領を巡る攻防

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©NHK

天正10年(1582年)22歳で元服。直政と名乗る。

天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当する

天正壬午の乱
本能寺の変の後の旧武田領をめぐり、相模北条氏と越後上杉氏との戦いとなる

天正11年1月11日、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。

秀吉の登場!

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。

長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた

小牧・長久手の戦い
織田信長の後継者について、織田信雄と羽柴秀吉との間で対立し戦になる。信雄支持を表明していた家康はこの戦いで秀吉と戦うことになる

天正14年(1586年)10月、徳川は豊富に従属することになり、家康は上洛する。家康天下人となった秀吉のもと、関東・奥羽地方の抑えという役割を担い、有力大名としての立ち位置を与えられた。直政従五位下に官位を得て、徳川筆頭家臣の位置づけられた

天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には、古参の重臣達が諸大夫に留まる中、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった

徳川家は関東へ移管となる

北条氏に代わって家康が江戸に入るとことに。

直政は上野国箕輪(群馬県高崎市)に配せられる。この時の知行高は徳川氏家臣団の中で最高の12万石となり、筆頭家臣としての立ち位置がより固められた

慶長3年(1598年)には、箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城とした

秀吉が死去

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、後継者の秀頼が幼少であったことから、豊臣政権内の政争の中で五大老のひとりであった家康が天下の当地を担う存在として台頭していくことになる

この後の政治抗争では、直政は豊臣方の武将との交渉を引き受け、家康の味方に引き入れることに成功している。

黒田孝高・長政父子とは盟約を結ぶまでの関係を築き、黒田家を通じてその他の武将も親徳川に組み入れた

関ケ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは直政は家康本軍に随行。本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となる

全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ

開戦後は島津義弘の甥である島津豊久を討ち取ち、更に退却する島津軍を百余騎率いて追撃。このとき直政は右肘に銃弾を受けて負傷してしまう。大怪我を負ったにも関わらず、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力した。

彦根藩の礎を築く

関ヶ原戦いの後、直政は石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられ、従四位下に任官された

家康は、西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、京都に近い彦根に井伊家を配したされる

慶長7年(1602年)2月1日に直政は死去した。遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に長松院が建立された。

家督は長男の直継(後の直勝)が継いだが病弱であったため、大坂冬の陣に出兵するに際し、家康の直命により、次男である井伊直孝が指名された

その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれた。それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなった

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