「西郷どん(せごどん) 」あらすじと時代背景がまるわかり!ネタバレあり!

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©NHK

こちらは2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」の全体のあらすじです。ネタバレが含まれますので、まだ知りたくない方は読まないでください!

西郷どんとは西郷隆盛の愛称です。西郷隆盛といえば、維新の立役者の一人です。歴史の教科書にも乗っていますし、大河ドラマの幕末ものには必ず登場する偉人ですよね!

でも、実際に何をした人かと言うとちゃんと答えられますか?

2018年の大河ドラマを1年見ればその答えはわかるでしょう

でも一度おさらいしておきたい場合は、こちらにあらすじを含めて短くまとめたので、よかったら御覧ください



吉之助の少年時代〜青年時代

西郷隆盛(さいごうたかもり)こと吉之助(きちのすけ)は、薩摩の下級武士の家の長男として生まれました。兄弟は3人の妹と3人の弟がいて、祖父母と父母との大家族です。家計は貧しいながら、家族みんな仲良く暮らしていました

吉之助は13歳の時に盟友と喧嘩をして負傷してしまいます。ケンカ相手の少年が鞘のまま打ちかかってきた際に、勢いで刀身が抜け出て吉之助の肘を斬ったと言われています。この負傷によって右腕が伸びなくなった吉之助は、武芸を断念し、学問に専念することになりました

また吉之助は、少年時代に次の藩主になる斉彬と話す機会があり、尊敬と憧れの念を持つようになります

18歳の時には、藩より農政を担当する郡方書役助という役目につきます。まめに田畑をまわり、農民たちと接し、貧しいものには身銭を切って救済したりしてしまうことがありました

農政の窮状について建白書を、藩に向けて度々書いたのもこの頃で、それは斉彬の目の留まることになりました

薩摩のお家騒動(お由羅騒動)

その頃、薩摩藩の藩主は島津斉興(しまずなりおき)でした。長男には江戸で生まれ育ちで、英明といわれていた斉彬(なりあきら)がいましたが、斉興はなかなか家督を譲りません

というのは、斉興の愛妾である由羅(ゆら)が自分の子・久光(ひさみつ)を藩主に擁立しようとしているのだということがウワサされていました

それがもとで藩内でも斉彬派久光派に別れて争うようになり、お由羅騒動へと発展してしまいます。その結果、謀反を企てようとした罪で斉彬派の藩士が多数処分されしまいます

しかし、このことがきっかけで斉興は隠居せざるを得なくなり、ようやく斉彬が藩主に就任しました

斉彬に見いだされ庭方役に抜擢される

吉之助は26歳のときに親の勧めで結婚します。相手は伊集院須賀。しかし、同年、祖父の龍右衛門、父の吉兵衛、母の満佐が相次いで亡くなります

新妻の須賀は貧しい家計の中、一人で義理の弟や妹の面倒をみていましたが、見兼ねた伊集院の実家から吉之助に、須賀を引き取りと離縁の申し入れがきました。

吉之助はそれを受け入れます。最初の結婚は短い間で破綻していまいました

斉彬が薩摩藩主となって初めての参勤交代で江戸に向かうことになり、吉之助は初めて随行するように命じられます。斉彬吉之助が提出した建白書に特別な興味をいだいていたようで、道中で対面すると、江戸に到着後すぐに庭方役として大抜擢されました

庭方役とは、藩主の手足となってはたらく秘書のようなものです。こうして、吉之助は斉彬の密使として諸藩の連絡役をも任されるようになったのです。

この頃は、幕府では将軍跡継ぎ問題が取りざたされていて、水戸藩出身の一橋慶喜(よしのぶ)を推す「一橋派」と紀伊藩出身の徳川慶福(よしとみ)を推す「南紀派」による政争になっていました

一橋派の斉彬は、大奥からも慶喜へ有利に働きかけてもられるように、島津家の姫・篤姫(あつひめ)の将軍家への輿入れを画策します。そして篤姫は将軍・定家に嫁ぐことになりました。その時、篤姫まわにの調整役を吉之助が担当しました

井伊直弼が大老に就任、斉彬の死、そして安政大獄

しかし、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると情勢が変わります。外国との通商条約を勅許なしで締結し、時期将軍を慶福(のちの家茂)と定めました。

さらに、安政大獄によって反対派の処罰を始めました。

そんな中、斉彬が急死していまいます。吉之助は絶望のあまり殉死を決意しますが、親交のあった清水寺成就院の僧・月照に止められ断念しました。

入水自殺と奄美大島への島送り

その月照にも安政大獄の弾圧の手が伸びてきました。吉之助月照を薩摩へ連れて逃げました。しかし、薩摩藩に受け入れを拒否されたため、吉之助月照とともに入水自殺を図ります。

ことのき月照は絶命しますが、吉之助は一命をとりとめました。幕府の目を逃れるため、吉之助は死んだことにされ、菊池源吾と名を変え奄美大島へ流されました。

奄美大島での暮らしは初めは馴染めず苦労したようですが、島妻・愛加那を娶り、島の子供たちに勉学を教えたりするようになり馴染んでいきます。

また薩摩藩の奄美大島に対する圧政も知る機会ともなりました

そんな中、安政大獄で恐怖政治を断行していた井伊直弼桜田門外の変で暗殺されました

薩摩藩で実権を握っていた久光公武合体を実現させるために兵を率いて上洛すると言い出しました。しかし、京都でのつてがなく困っていたいました。重臣の大久保はこの時とばかりに吉之助の帰還を願い出て許可されたのです。

吉之助は妻子を島に残して、約3年ぶりに鹿児島の地へ戻ることができました。

久光との対立から2度めの島送りとなる

吉之助久光の上洛に反対します。しかし久光は兵を率いて上洛することを断行します。吉之助はしかたなく下関で久光を待つことになりました

しかし、倒幕に向けて兵を挙げたというウワサが広がり血気に早った藩士たちが集まりだしたのです。危険を察知した吉之助は暴発を止めようと、勝手に上洛してしまいます。

このことが久光の逆鱗に触れ、吉之助は薩摩に送還された後2度めの島流しとなりました。今度はさらに遠くの徳之島を経て、沖永良部島へ流されたのです。

生麦事件から薩英戦争、蛤御門の変、長州征伐、薩長同盟

吉之助が沖永良部島にいる間では、薩摩でも京でも次々と問題が勃発。吉之助も恩赦が認めらることとなります

生麦事件は薩摩藩士が英国人を斬りつけたことから戦争に発展。京では、政変で京都を追われた長州藩が、形勢挽回のため京都に兵を進め、会津・薩摩藩などの兵と交戦となり破れます

朝敵となった長州を追い詰めるため長州征伐となります。また、ここでは吉之助が下関に乗り込み事態を打開することに貢献しました。

また長州への2度めの討伐が計画されますが、吉之助は反対します。またこの頃に引き合わされた坂本龍馬によって薩摩と長州の間を結びつけるように導かれ、薩長同盟を結ぶことになりました

吉之助はこの頃、3度めの結婚をします。お相手は岩山糸(いと)

大政奉還、戊辰戦争、江戸城無血開城

将軍が慶喜に変わり、ついに大政奉還に踏み切りました。しかし、江戸の薩摩藩邸の焼き討ちに端を発し、旧幕府軍と新政府軍との衝突が勃発。鳥羽伏見の戦いの火蓋が切られました。

錦の御旗を掲げて戦う新政府軍の方が有利で、慶喜は大坂城を脱出して江戸へ退却。そして江戸城の明け渡しとなりました

その後も新政府軍は抵抗する旧幕府軍と戦い(戊辰戦争)はしばらく続きましたが、新政府軍が旧幕府軍を降伏させ終結しました

新政府への参加 征韓論で対立し鹿児島へ

戊辰戦争のあと、吉之助は鹿児島へ帰国しますが、新政府のメンバーからの呼び出しを受け上京し参与することになります

また大臣たちが欧米使節団として多数海外に出かけていたときは一時留守中の新政府を任されていました。その間に次々と大改革を実施しました

しかし、朝鮮への使節団の派遣をめぐり意見が対立して、吉之助は辞表を提出し鹿児島へ帰国していまいました

西南戦争

鹿児島に帰った吉之助は、私学校を創立しました。政治とは関わりのない生活をしていました。

この頃、全国では不平士族の反乱が頻発していました。そして、不平士族たちは吉之助の元へも集まってくるようになります

そして、吉之助は心ならずも不平士族のリーダーに担がれて西南の役を戦い、敗れて、最後は自決して果てます…

しのぶの一言

西郷どんの人生は波乱万丈そのもの。時代のうねりに巻き込まれ、いつしか表舞台に立つことになり、そして全力を出し戦いぬき走り去っていったのだと思います…

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