幕末期に、幕府に異議を唱える人々を井伊直弼らが弾圧した安政の大獄はとても悲惨な事件です…
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?
どういう経緯で安政の大獄は起こったのか?
江戸時代というのは、なんだかんだ言っても平和な時代でした
長く続いた戦乱の世の終止符をうち、徳川家を頂点として結成された徳川幕府は、大きな混乱もなく265年もの間太平の世が続いたのですから
徳川幕府は揺るぎない中央政権として機能していて、大名や朝廷などの統制もキッチリとれていたのです
ところが、1853年にペリーが日本にやってきてから歯車が狂い始めます
アメリカは、武力をちらつかせながら開国を迫ってきました
幕府内だけでこの難問に対応出来ず、老中首座であった阿部正弘は広く意見を求めるようになります
しかし、このことは従来の幕府の要職にあった井伊直弼のような人からみると、これは好ましくない事態でした
そこに将軍継嗣問題がからみ、一橋慶喜を将軍に推す一橋派と徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派に分かれて論争に発展します
一橋派の方は帝も味方につけていたし、形勢は有利だと思われていましたが、井伊直弼率いる南紀派に覆されてしまうのです
反対勢力を抑えた井伊直弼のやり方
(あくまで、大河ドラマ「西郷どん」で描かれている手法なので、史実とは違う点もあります)
将軍家定が亡くなる前、家定と面会した際、自分が後を任されたように見せかけ、大老に就任します
将軍継嗣問題と日米通商修好条約の締結をめぐり、一橋慶喜や水戸の斉昭公、福井藩主・松平慶永(よしなが)が江戸城に登城し、井伊直弼を詰問しました
そのたびに、井伊直弼は慇懃に頭をさげて、
「恐れ入り奉りまする(おそれいりたてまつりまする)」
と繰り返します
しかし、その後、不時登城(本来の登城日でないのに江戸城に入ること)を逆手に取り、規約違反として隠居・謹慎を命じます
その後は、反対勢力を次々と捕らえ処分していったのです
その数は100人以上といわれています
そのうちの8人は死罪となりました
そのなかには、橋本左内や吉田松陰が含まれます…
一橋派の敗北の理由として考えられること
有利とみられていた一橋派はここまで追い込まれ敗北したのはなぜでしょうか?
やはり、井伊直弼に比べて詰めが甘かったと言わざるを得ません
井伊直弼の強引で、冷徹な手法を間髪入れずに断行したのですから
一橋派も井伊直弼がまさかここまでやるとは思ってもみなかったのでしょう…
井伊家に対する視聴者の反応がいつもと違う
井伊直弼は歴史上の有名人の中でもトップクラスの嫌われている人物だそうです
今回ももちろん、井伊直弼に対する嫌悪の声は聞かれますが、その一方で新しい反応があるんですよね!
その理由は、昨年の大河ドラマ「おんな城主井伊直虎」にあるようです
昨年の大河ドラマでは井伊家が主役だったのです
今まで歴史上では悪名高かった井伊直弼ですが、昨年はその子孫が脚光を浴びました
私もすっかり、井伊直虎・井伊直政のファンになってしまい、井伊家に対する見方がガラッと変わりました
そして今回、赤備えをバックにした井伊直弼役の佐野史郎さんが登場した時は、ネットでもザワついていましたね
しのぶの一言
1年前に井伊家の苦難を見てきた大河ドラマファンにとっては、井伊家は憎むべき相手ではなくなっていた!という事なのでしょう
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