江戸幕府は長い間、譜代大名が幕府政治を担当していました
関ヶ原の戦いの前から徳川氏の家臣であった大名。全国の要所に配置され、幕府の要職を独占していた
親藩・外様大名たちは幕政に口を出すことは許されなかったのです
将軍家近親の大名。特に、尾張・紀伊・水戸の徳川氏を御三家と呼ぶ
関ヶ原の合戦以後に徳川氏に臣従した諸侯
ところが幕末期になると、ペリーが来航して開国を迫られるという異例の事態が起こりました
幕府は外交問題で難しい舵取りを要求されるようになります
そこで、時の老中首座であった阿部正弘は、外様ではあっても有能な大名が積極的に意見を述べられるように改革を図かります
譜代も親藩も外様も区別のない、能力のある大名なら国政に参与させようという構想です
しかし、従来のやり方を変えたくない人たちもいました
そこに将軍家継嗣問題も絡み、争いと発展してしまいました
一橋派とは?
第13代将軍・徳川家定の継嗣問題において、一橋慶喜を推した一派のこと
篤姫を家定の後台所にして、次の将軍に英邁の誉れ高い一橋慶喜を推挙しようとしていました
一橋派のメンバー
親藩大名
- 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)前水戸藩主、慶喜の実父
- 徳川慶篤(とくがわ よしあつ)水戸藩主、慶喜の実兄
- 松平慶永(まつだいら よしなが)福井藩主
- 徳川慶勝(とくがわよしかつ)尾張藩主 など
外様大名
- 島津斉彬(しまず なりあきら)薩摩藩主
- 伊達宗城(だて むねなり)宇和島藩主
- 山内豊信(やまのうち とよのぶ)土佐藩主 など
一橋派の大きな特徴は、譜代大名だけでなく島津斉彬などそれまでは幕政に関与できない外様大名もいたことです
また、水戸藩のような強硬な攘夷派と薩摩藩や宇和島藩のような積極的な開国派が混在していました
南紀派とは?
将軍継嗣問題において、徳川慶福を推した一派のこと
紀伊藩主・徳川慶福(のちの徳川家茂)は血筋として最も正当なであるとしていたが、このとき慶福はまだ9歳でした
幼い慶福が将軍につけば、井伊がその後見として幕政を動かすことになると考えられてたのです
南紀派のメンバー
- 井伊直弼(いいなおすけ)彦根藩主
- 松平容保(まつだいら かたもり)会津藩主
- 松平頼胤(まつだいら よりたね)高松藩主
- 松平忠固(まつだいら ただたか)信濃上田藩主、老中
- 水野忠央(みずの ただなか)紀伊藩附家老
- 大奥 など
これまで通りの徳川独裁の体制を継続
国内政策では幕府独裁の継続、外交政策では開国路線の継続をめざしていました
一橋派 VS 南紀派の争いのゆくえ
はじめは、一橋派と南紀派の対立は一橋派が有利に見えました
一橋派の意向を受けた篤姫が徳川家定の正室になったことで、流れは一橋派にあったと思われていたのです
しかし、南紀派の井伊直弼(彦根藩主)が大老に就任したことで風向きが変わります
徳川慶福が将軍後継者となり、一橋派は敗北
家定の死後、14代将軍家茂(慶福)となり、井伊が一橋派の諸侯や志士への弾圧(安政の大獄)が始まります
率兵して情勢を挽回しようとした島津斉彬は出兵直前に病死してしまいました
しかしその後、井伊直弼は桜田門外の変で報復として暗殺されてしまいました…
しのぶの一言
ペリー来航後の混乱は、初めは幕府内で収めるはずでした
しかし、幕府内で派閥争いとなり、井伊直弼が安政大獄で反対勢力を厳しく弾圧したために、自らも暗殺されるという最悪な結果になってしまいました
このことは幕府の威信を弱め、倒幕への道を加速させたようにも見えます
一橋派が勝っていたら、徳川幕府は続いていたかもしれない、あるいは違う形でソフトランディングできたのかもしれないし…
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