西郷どん(せごどん)第9回あらすじと感想!ヒー様と出会う!ネタバレあり!

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©NHK

吉之助はついに江戸へやってきます!

そして新たな人との出会い、懐かしい人との再会が!

●前回のあらすじはコチラ↓



第9 201834日放送

ネタバレを含みます

まだ詳細を知りたくない方は読まない方がよいでしょう

江戸での初仕事は?

吉之助斉彬に随行して初めて江戸の地に立ちます

斉彬が江戸に来たときに暮らす上屋敷は芝にある薩摩藩邸は、広さは約2万2000坪もあり、1000人以上の藩士が勤めていた

上屋敷とは

大名屋敷のひとつで、地位の高い大名や武家が平常の住居とした屋敷のこと。登城や勤番に便利な江戸城の近くに設けられ、大名とその妻子が住んだ。薩摩藩の上屋敷は芝(三田)にあった

当時、「薩摩侍が女郎を寝かさないわりに金払いが悪い」という戯れ歌が品川宿では流行っていた

薩摩藩は酒癖や女癖の悪い藩として有名だった。そのため江戸屋敷での規律はとても厳しかった

品川宿とは?

東海道五十三次の宿場のひとつで、日本橋を出発して最初の宿場のこと

「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄した

一方、斉彬は江戸に着くや、老中首座・阿部正弘の呼び出しを受けて江戸城に上がっていた

阿部の話によると、先日ペリー率いるアメリカの黒船が横浜に再来航した際、幕府は日米和親条約を結んでいた

日米和親条約とは

安政元年(1854)、日本とアメリ力合衆国とのあいだで結ばれた条約。米国船の薪水・食料などの買い入れを認め、下田・箱館の開港、下田に領事を置くことなどが規定された

幕府は薪水や食料の給与程度はやむを得ずと判断したが、ベリーの通商要求に関しては時期尚早として断固拒絶したのだ

しかし水戸藩の徳川斉昭は前年同様、打ち払いを唱えていたという

水戸藩とは?

江戸時代、常陸国水戸(現在の茨城県水戸市)に藩庁を置いた親藩。徳川御三家のひとつ。尊王思想を中核とする水戸学が興り、幕末の尊王嬢夷運動に多大な影響をあたえた

そんな斉昭に対し、彦根藩の藩主・井伊直弼が、戦うのは水戸藩だけではなく、その場に集うすべての藩である

勝てる保証がないのならば、民を守るために開国を受け入れるべきだと説き、評議一気に開国へ傾いたのだと言う

彦根藩とは?

江戸時代、近江国彦根(現在の滋賀県彦根市)に藩庁を置いた譜代藩。初代藩主
は「徳川四天王」のひとりである井伊直政で、譜代筆頭として代々井伊氏が在封。

その話を聞いた斉彬は、必勝の見込みはないものの通商を許すことも時期尚早だと考えて、返答を引き延ばすべきだと阿部に訴えた

流れのままに開国すれば、イギリスにねじ伏せられた清国の二の舞になると思われたからだ

そして、斉彬は未曾有の国難が迫っているのだから幕府には英邁な将軍が必要であり、幕府の構造そのものを改革しなければならないと進言した

そのため斉彬は、将軍・徳川家定篤姫の婚儀を急ごうと考えた。

しかし篤姫が徳川家の御台所を務めるために、学問や諸芸を仕込む時間のないことに焦りを感じていた

御台所(みだいどころ)とは?

貴人の妻を敬っていう言葉で、「御台盤所(みだいばんどころ)」の略称。江戸時代においては、おもに江戸幕府将軍の正室の呼称として用いられていた

郷中の仲間と再会

吉之助大山格之助有村俊斎に再会果たした。吉之助の江戸入りを祝うために、3人で品川宿の旅籠(はたご)「磯田屋」へ繰りだしていた。

そこは女子が寄り添って給仕をする店で、飯盛女が酒と料理を運んでくると吉之助は仰天してその酌を拒んだ

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©NHK

江戸まで来たのは斉彬に奉公するためであって、女子から酒を注いでもらうためではない!と怒った吉之助は出ていこうとした。が、そのとき飯盛女となっていた迫村のふきと再会する

よしと改名したふきは、贔屓のヒー様と呼ばれる客から指名がかかり、呼び出された。ふき吉之助らをヒー様の座敷へと引っ張って行った

町人風情ヒー様とは一橋慶喜(のちの徳川慶喜)のことだった。しかしその正体を知らないふきは、姿絵の得意な慶喜吉之助を描いてほしいとせがんだ

ふきは字の読めない父に、絵で吉之助との再会を報告しようというのだ。それを聞いておもしろくない慶喜は、顔は吉之助、身体は牛の似顔絵を描いた

ヒーさま「およし、妻えは貧乏が嫌いだろ。俺が見たところ、この男は一生貧乏で終わるぞ」

慶喜は、吉之助が嘘のつけない目をしていることから、一生貧乏だと直感したのだ

そこへならず者の酔客たちが雪崩込んで来た。吉之助大山俊斎とともに乱闘に巻きこまれてしまった。そして、気づいたときには慶喜の姿は消えていた。

その後、3人は乱闘で裂けた着物をまとい、傷だらけの顔で、門限を大幅に過ぎて江戸屋敷へと戻った。

大山俊斎は慣れたようすで履物を脱ぎ、忍び足で自室に入っていったが、要領を得ない吉之助は鬼の形相の迫田に見つかってしまった

翌日、門限破りの罰として、吉之助には藩邸内の庭掃除が課せられた…

毎日掃き掃除や雑草取りをしていた吉之助が、斉彬の暮らす御座所の庭方役に命じられたのは、庭掃除をはじめてから数日後のことだった

御座所とは?

天皇や貴人が座ったり伏せったりする居室

殿からの密命その1

ある日、吉之助が庭掃除をしていと、斉彬が前に現れて声をかけてきた。そして、小石川にある水戸藩上屋敷に大事な書状を届けるよう吉之助に命じた

危険な目に会うかも知れないと聞いた吉之助は、幼いころに右腕の腱を斬られて刀を使えなくなったことを斉彬に話した

そしてここに生きていられるのは、子ども心に斉彬に会い ”いずれ刀だけの世は終わり、侍が重い刀を二本も差して歩くことなど無用となる日も遠くない”と、斉彬に言葉をかけてもらったからだと打ち明けた

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©NHK

かつて泣いていたやっせんぼの少年の姿を思い出した斉彬は、あの少年が吉之助だったとわかり、当人をじっと見つめた

斉彬吉之助は、斉彬のためならいつでも命を投げだす覚悟だが、刀で斉彬を護衛することはできないことを話した。すると斉彬は、腰にしていた短刀を吉之助に差しだして言う。

斉彬「雨の日も、雪の日も、いつ何時もここにおること。そして、わしの手となり足となること。それがそなたの、お庭方の勤めじゃ。そしてこの先、わしに代わって用談をし、人知れぬ秘密を知ることもある。その秘密を守れぬときには、これを使え」

こうして短刀を授かった吉之助は、斉彬の使い番を引き受けると、正装して書状を抱え水戸藩邸へ向かった

吉之助は水戸藩邸で、水戸藩主の座を隠居しながら、依然としてその力を幕府内に轟かせていた徳川斉昭に対面した

ところが斉昭は、吉之助が持参した書状を破ってしまう。驚いた吉之助がなぜそんなことをするのか尋ねると

斉昭は、アメリカの脅しに屈して日米和親条約を結んだ幕府の悪口を書いてきた。斉彬の書状を破ることで、その思いを心にとどめたのだと言う

斉彬の書状の内容を知って驚いた吉之助は、紀伊家・尾張家と並ぶ徳川御三家である水戸家に、斉彬はなぜ徳川家の悪ロを告げたのかと斉昭に率直な疑問を聞いた

斉昭は彦根藩の井伊直弼が自分の権勢のみを強めようとしている現状を説明した。そこへ斉昭の息子の一橋慶喜が入ってきた

慶喜斉彬は徳川宗家と仲の悪い水戸藩と手を組んで、いずれ倒幕でも企てるつもりなのではないかなどと言い笑った

その顔と笑い声に聞き覚えのあった吉之助は、慶喜が品川で会ったヒー様だと思い出した

吉之助は懐から「顔は吉之助、身体は牛」の絵を取りだして見せたが、慶喜は平然としらを切り、逃げ足早や煙のように出ていった。

これが、のちに徳川家最後の将軍となる慶喜吉之助との出会いであった

しのぶの一言

貧乏で身売りすることになったふきのことを、助けなれなくて涙で別れた吉之助は江戸でまさかの再会することになるとは!

ふきは畑仕事で真っ黒でガリガリだったのに、ふっくらして白塗りしてこんなに綺麗に色っぽくなっちゃって…良いのかわるいんだか…(笑)

江戸に来てもひたすら掃除ばっかりさせられる吉之助。さすがに凹んでお口をとんがらせていたけど、殿の側近くに行けることになってよかったー!

吉之助が子供の頃に殿に声をかけられたことをこれでやっと伝えられましたね

普通なら殿のような方に近づくことができるわけがないのに、でもなぜか側に行き、ケガをしたから生きていけないと涙ながらに斉彬に訴えた小吉(吉之助の子供時代の名)

そして、その訴えを無視せずに真摯に受け止めてちゃんと答えてくれた斉彬。そんな斉彬さまのことを吉之助はずっと尊敬して思い続けてきたんですよね

やっと側近くに仕えることができる!その喜びはこの上ないものに違いありません。

真面目で頑張りやの吉之助はこれからもますます張り切ることでしょう。空回りすることもありそうだけれども…

●次回はコチラ⬇

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