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家康の命で信長に面会にやってきた酒井忠次。そこで信長からとんでもないことを言われ、それを請け負ってきてしまいます
知らせを聞いた家康や家臣たちは絶句。重苦しい空気に包まれます
その信長の命とは何だったのでしょうか?
それは、家康の嫡男・信康に謀反の疑いがあるので斬れ!というものだったのです
膠着した中で忠次の放った一言
忠次「….も、もはや信康様の首を差し出すしかないのではないでしょうか。織田に刃向かえばたたきのめされることは必至。それに、信康様ご自身が理由をお作りになっところもございますわけですし……」
家康「誰のせいでこうなったと思うておる!己の下手を棚に上げ、信康にぬれぎぬを着せよと申すか!」
忠次「私にございます!私の下手にございますゆえ、あえて皆が言いにくいことを申し上おります 」
家康「……そなたは、そなたはもう織田にはせ参じよ!」
いつも穏やかな家康ですが、この時はすごい勢いで怒ります!
忠次も信康が嫌いなわけでも、亡くなってももいいと思っているわけではありません!
でも今の時点で信長に逆らうことは到底ムリな話なのです
何か対抗策がなければ、信康を斬るということを受け入れるしかなかったのです
ダーティー忠次

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思えば、忠次はずっと徳川家の汚れ役だったのかもしれません
井伊谷城開城の際も家康の先陣としてやってきました。何者かが矢を放ち、騒然となった井伊谷城の門前で忠次は直虎に疑いの目を向けて凄んできたイヤな野郎でした
駿河侵攻時、気賀の堀川城攻めでは、敵以外の人々がまだ城内大勢いたのにも関わらず、忠次は攻め入り全滅させてしまったのです
家康は井伊を助けたいと願いそして残忍な行為を嫌っていたので、忠次の強引なやり方は辛いことだったようです
忠次のその後
信康の命を助けることは出来ず、瀬名も失った家康の悲しみは計り知れません
忠次はその後も家康に重臣として仕えて活躍しますが、家康は忠次に対して恨みに思う気持ちというのはずっと残っていたようです
なぜなら、徳川四天王(徳川に特に功労のあった4人の重臣)の一人に数えられる忠次の禄高は他の3人よりずっと少ないのです
他の重臣が10万規模であったのにもかかわらず、家次(忠次の子)は3万石とういうように処遇に差がでています
これに忠次が抗議した際に「お前も我が子が可愛いか」と信康事件の不手際を責められたという風に言ったとも言われています
関東移封時の石高
酒井家次(酒井忠次の子) 3万石
本多忠勝 10万石
榊原康政 10万石
井伊直政 12万石
しのぶの一言
忠次の言動はたしかに気持ちのいいものではありません
でも裏返せば、徳川家を守りたい繁栄させたいという強く気持ちがあったからなのでしょう
家康も今川の人質時代からずっと支えてくれた忠次には頭が上がらなかったのではないでしょうか
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