禁門の変(きんもんのへん)とは、幕末の長州軍と幕府軍との京都御所付近で起きた戦闘のことです
蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも言い方をすることもあります
幕府軍は薩摩藩、会津藩、彦根藩、福井藩、桑名藩、新選組などの連合軍です
長州軍は始めの勢いはよかったものの、長州軍約2000人に対して幕府軍約1万人と数の上では不利でした
西郷吉之助率いる薩摩軍の圧倒的な強さの前に敗北を喫して撤退することとなります
さらに悪いことに、戦場となった京都の街は大火に見舞われ、焼き尽くされてしまうのです
長州軍はなぜ京に進軍したのか?
事の発端は、8月18日の政変です
政変で京都を追われた長州は、巻き返しを図るべく水面下で活動していました
しかし藩内での意見は割れ、武力をもって藩の復権を目指す急進派と慎重に事を進める慎重派に分かれて対立してしまいます
急進派の国司信濃(くにししなの)、福原越後(ふくはらえちご)、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)
この3家老を慎重派の桂小五郎(かつらこごろう)や高杉晋作(たかすぎしんさく)らがなんとか抑えていたのです
しかし、1864年(元治元)6月に池田屋事件が勃発
新選組により長州藩士をはじめとする尊皇攘夷派の志士たちが殺害されたことに長州藩の怒りは頂点に達します
急進派の3家老は挙兵を決意します
来島又兵衛や、慎重派から転じた久坂玄瑞らとともに、兵を率いて京都へと向かいました
約2000人の長州軍は、国司隊、福原隊、益田隊の3隊に分かれて御所へと進軍しました
まず、長州藩主・毛利敬親、定広親子や、三条実美ら尊攘派公家の赦免を朝廷に要求しようと試みます
しかし、これを朝廷に拒否されたため、幕府軍と戦闘を開始しました
蛤御門や堺町御門周辺では激戦を展開、長州藩の砲弾が御所内にも着弾しました
一時は堺町御門を突破するなど、長州軍が優勢に立ったものの、最後は1万人以上もの兵力を誇る幕府軍が勝利します
敗れた長州軍は、わずか1日の戦闘で、来島や久坂を含む250人以上の戦死者を出しました
また御所を攻撃したことにより、朝廷から”朝敵“の烙印を押され、幕府の第一次長州征伐を招くこととなりました
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